
微笑みの国との運命的な出会いからすべては始まった
二十歳の時、私は恋に落ちました。
ごくごく普通のツアー旅行に参加して、何の予備知識もないまま訪れたバンコクで、私はこの“微笑みの国”に心を奪われてしまったのです。香港、韓国、アメリカ、ハワイ…、過去に行ったことのあるどの異国ともまったく違う、胸の奥深くを掻き立てる根源的な何かがありました。タイに魅了されてからというもの、人、食事、音楽、文化、歴史…、この国のことをもっと知りたい、深く知りたい、その欲求を満たすことが私の生きがいでした。
「好き」という気持ちに素直に生きていく中で、タイ料理店「ドゥワンチャン」をオープンしたのは2013年のこと。福岡県糸島の私が生まれ育った二丈深江に150年以上前からあった古民家を改装してお店を開きました。といっても、当時から古民家に特別な感情があったわけではありません。さまざまな縁に導かれて“たまたま”古民家を使ってタイ料理店を営むことになり、そこから「月-唐津街道深江宿」にまで1本の道がつながっているとは、私自身、当時は想像すらしていませんでした。

変わりゆく故郷・糸島への複雑な想い
ありがたいことに、「ドゥワンチャン」には多くの人が来てくれるようになりました。「タイ料理が好きになった」「タイに行ってみたくなった」お客さんからのひと言、ひと言が宝物です。「糸島っていいところだね」そんな嬉しい言葉もかけてもらえます。
私が愛してやまない糸島は年を追うごとに、にぎわいを増しています。福岡県外から、海外から、人が集う場所になりました。大好きな故郷でたくさんの人が楽しい思い出をつくっている。それは素敵なことのはずなのに、どこか素直に喜べずにいました。
大切な何かがおいてけぼりにされている、忘れられたままになっている。故郷が姿を変えていくほどに、得体のしれない不安や焦りは大きくなっていきました。そんな時、ある古民家に出会いました。正しく言えば、子どもの頃から知っている“あの家”が、売りに出されていることを知ったのです。
宿泊をした方々に「日本って素晴らしい」と感じてほしい
“あの家”は、江戸時代初期に整備された「唐津街道」沿いに100年以上たたずむ日本の伝統的な家屋です。すぐそばには、その地で800年を超える時を刻み続ける「深江神社」があり、今でも「鬼追い」や「おくんち」などの伝統的な神事、行事が守られています。かつては街道沿いの「深江宿(ふかえじゅく)」として栄えた地区で、宿場町だった当時を偲ばせる建物や風景が残っています。
子どもの頃から見慣れたこの街並みが変わってしまうかもしれない。
私がみんなに感じてほしい糸島ってこれなんじゃないか。
その古民家が売りに出されていると知った時、ずっと胸に渦巻いていたもやもやが、くっきりとした姿になりました。そして、この古民家をゲストハウスにすると即決しました。

ゲストハウスで過ごす方に、日本や糸島の歴史や文化を知ってほしい。そして、「日本って素晴らしい」と感じてほしい。そんな想いが「月-唐津街道深江宿」の原点にあります。できるだけ古民家に手を加えず、リノベーションが必要な場合でも、日本の木、土、石、紙にこだわりました。洗面台には唐津街道の終着点である佐賀県唐津で14代、400年以上にわたって続く唐津焼の窯元「中里太郎右衛門窯」の焼き物を使っています。
浴室の湯舟から眺める日本庭園、高い天井、太い梁、彫刻を施した欄間、そして、ゲストハウス周辺の街並み、そのすべてに、古き良き日本や糸島の文化や歴史を語るストーリーが詰まっています。
大切なものを守るためのまちづくりが始まる
「月-唐津街道深江宿」は糸島に対する私の想いがたどり着いた終着点ではなく、ここがはじまりの場所です。にぎわいの陰で忘れられたまま消えようとしている価値を憂うだけの傍観者から、ようやく動き始めることができました。
観光だけではない万華鏡のような糸島の魅力を、日本中の人に、世界中の人に、そして、この地で暮らす地元の人に気付いてほしい。
建物、文化、街のにおいや空気、決してなくしたくない愛おしいものたちを守り、伝えていくためのまちづくりを「月-唐津街道深江宿」からはじめたいと思っています。