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深江神社の歴史と地域社会との関わり

創建の由来と主祭神

深江神社(ふかえじんじゃ)は、福岡県糸島地域に約800年の歴史を刻む古社です。創建は鎌倉時代初期の建久元年(1190年)に遡り、当時高祖城主であった原田種直(はらだ たねなお)公が、没落していた原田氏再興の守護神として太宰府の竃門宝満宮および太宰府天満宮の御分霊を糸島郡深江の地(上深江片峯)に勧請したことに始まります。その後、元の社地が狭隘であったため建仁3年(1203年)に現在地(深江)へ遷座されました。以上が神社創建の経緯であり、鎌倉期からこの地に鎮座して地域を見守ってきたことが記録されています。

深江神社の主祭神は二柱で、竃門宝満宮から勧請された玉依姫命(たまよりひめ の みこと)と、太宰府天満宮から勧請された菅原道真命(すがわらのみちざね の みこと)です。玉依姫命は神武天皇の生母と伝わる女神であり、宝満宮(竃門神社)の祭神として知られる水・縁結びの神格です。一方、菅原道真命は平安時代の学者・政治家で、死後に天神様として祀られた人物であり、学問の神・雷除けの神として広く信仰されています。原田種直公がこれら二柱を勧請した背景には、一族再興への祈念だけでなく、当時の神仏習合の下で有力な神威を持つ神々を当地の守護に迎えることで、深江の地と領民を災厄から守ろうとした意図があったと考えられます。実際、創建当初は神宮寺として「誕生山神護寺秀覚院」という寺院(宮司の坊)が併設されており、神仏習合の形式で祭祀が行われていました。この神宮寺は、豊臣秀吉による社殿再興(後述)を記念して改号されたもので、明治維新期の神仏分離まで神社と一体の存在でした。

唐津街道・深江宿の発展と深江神社

深江は近世において唐津街道(長崎街道の支線として博多~唐津を結ぶ宿場町街道)の深江宿として栄えた土地です。江戸時代には唐津藩領から幕府直轄領、さらに中津藩領へと領主支配が転変し、各時期を通じ街道の要衝として機能しました。深江宿は唐津街道上の13宿場の一つで、筑前国と肥前国の境界に位置し、商人や旅人のみならず参勤交代で往来する武士や役人も逗留する交通の節点でした。その地理的重要性から、中津藩統治下の文政12年(1829年)には深江新町に郡代官所(奉行所)が設置され、藩領怡土郡から年貢米2万石を集積して深江の浦から船で運搬したとされます。このように深江宿は宿場町であると同時に物資集積港としても繁盛し、町人地が発達するとともに深江神社は地域の中心的存在として寄与していきました。

深江宿の発展と深江神社の関わりを語る上で特筆されるのが、天下人豊臣秀吉とのゆかりです。天正20年(1592年)、豊臣秀吉は肥前名護屋城での朝鮮出兵(文禄の役)指揮の途上、深江宿に立ち寄り深江神社に参拝しました。社境内で秀吉自ら野点(屋外での茶会)を催していた折、大坂城から早馬が駆け込み、側室淀殿の懐妊・後に男子(秀頼)出生の報せがもたらされたのです。秀吉はこの吉報に接し大いに喜び、深江神社を「秀頼公の産神(うぶすながみ)」すなわち我が子の生誕地主神であるとして尊びました。その場で時の筑前領主小早川隆景に命じて社殿の改築・再興を行わせ、社司には豊臣家ゆかりの号を与えています。この時奉納された石造鳥居(二の鳥居)は現在も境内に残り、「安産の鳥居」として伝承されています。秀吉の深江宿逗留と深江神社再興は、唐津街道沿いの一社としての深江神社の名を高め、以後も諸大名や旅人の崇敬を集める契機となりました。実際、江戸時代を通じて唐津街道を往来する人々にとって深江神社は宿場町深江の象徴的存在であり、宿場の東端に位置する神社の社頭と白壁は繁栄の象徴として旅人の記録にもその姿を留めています。

江戸時代の藩政下でも、深江神社は領主から篤い庇護を受けました。慶長18年(1613年)には唐津藩初代藩主寺沢志摩守(寺沢広高)が社領として東西南北百間四方(約109m四方)の広大な社地を寄進し、その後唐津藩主が大久保加賀守(大久保忠職)に交代するまで毎年米二石の献納が継続されました。享保2年(1717年)に当地域が中津藩領(奥平氏)に移管されると、深江神社は怡土郡西部十四ヶ村の総宗廟(地域総氏神)と位置付けられ、近郷近在の崇敬を一身に集めました。このように領主からの寄進・奉納や位置付けは、深江宿を含む地域社会において深江神社が宗教的中核として認識されていたことを示しています。深江宿の住民にとって深江神社は旅の守護のみならず、日々の生活と共同体の平安を託す拠り所でした。例えば天保3年(1832年)には、深江の町人たちが火災除けを祈願して石灯籠(火難封じの燈籠)を建立し、毎夕これに点灯して天神(菅原道真)に火難除けを祈る風習を始めています。このような信仰実践からも、宿場町の発展と深江神社の信仰が深く結びつき、地域の安全・繁栄に寄与していた歴史的背景が明らかになります。

地域社会における深江神社の役割

深江神社は古来より深江地区および周辺村落の氏神様(産土神)として篤信を集め、地域共同体の精神的中心でした。中津藩領時代に十四ヶ村の総氏神とされた後は、とりわけ地域住民による崇敬が厚く、毎年の例祭や神事には近隣各地から人々が参集しました。江戸期の記録によれば、深江神社の秋季例大祭(現・深江神幸祭)は非常に盛大で、「殷賑(いんしん)を極め」たとされます。秋の豊穣を感謝し翌年の豊作を祈るこの祭礼は、当時「おくんち」と通称され、武芸行事の流鏑馬(やぶさめ)なども奉納される一大イベントでした。祭礼の日には神幸(神輿渡御)が執り行われ、神輿が氏子地域を巡行して浜(海岸)に設けられた御旅所に渡御する伝統がありました。この「神様を神社の外に連れ出す」神幸祭は、五穀豊穣・大漁満足・家内安全・航海安全を祈願する祭りでもあり、土地の農漁業と生活を支える信仰行事でした。江戸時代後期に造られた神輿が現存することから、少なくとも200年以上前からこの神幸祭が続いていると推定されています。深江神社の祭礼は、信仰の場であると同時に村落の連帯を強める場でもあり、地域文化の形成に重要な役割を果たしました。

深江神幸祭(しんこうさい)として現在まで受け継がれる秋の大神幸は、地域の伝統行事として福岡県下でも有名です。毎年10月第3日曜日に催行されるこの祭では、深江神社から海岸の御旅所まで神輿渡御の行列が練り出します。行列の先頭を飾るのは、江戸時代の大名行列を模した奴姿(やっこすがた)の若者たちで、白熊(はぐま、毛槍の一種)や挟み箱などを携え勇壮に隊列を組みます。その後に神輿が続き、基本的に数え年42歳の厄年男子が担ぎ手を務めます。42歳は男性の大厄に当たる年齢であり、神輿を担うことは厄払いと奉仕の意味合いがあります。この伝統は地域の中高年男性に祭礼参加の機会を与えるとともに、共同体で厄を祓う習俗として機能しています。道中、厄入り(厄年に入ること)や祝い事のあった家々・商店の前では、奴姿の若者達が「フリコミ」と呼ばれる所作を披露しながら祝言の口上を述べて練り込みます。御旅所に到着すると稚児(ちご)による舞が奉納され、また大漁旗を掲げた漁船が海上を巡行する海上パレードも行われます。これらの一連の神事は、農耕から漁業までを営む深江の人々が一年の恵みに感謝し、更なる繁栄を願う場であると同時に、伝統芸能・風俗を次世代に伝える文化の場ともなっています。奴振りや稚児舞いといった芸能、神輿渡御の作法や役割分担(青年は奴、壮年は神輿担ぎ、子供は稚児など)は、地域の中で代々受け継がれ、深江の文化的アイデンティティを形作ってきました。昭和以降も祭りは続けられましたが、大正初期頃までは行われていた流鏑馬は姿を消し、戦後は簡素化された時期もありました。それでも地元有志の努力で伝統は守られ、令和の現在も深江神幸祭は地域最大の年中行事として健在です。近年では糸島市無形民俗文化財への登録や観光PRもなされ、地域内外に深江の伝統を発信する機会ともなっています。

深江神社と地域社会の関わりは、秋の大神幸祭に限らず多岐にわたります。たとえば毎年7月第一日曜日には、深江の地区伝統行事として川祭り(深江川祭り)が行われます。この祭りは海や川での水難除け・安全祈願を目的とし、地域の子どもたちが主体となって準備から神事までを担う全国的にも珍しい行事です。早朝から深江海岸に祭壇を設け、少年少女が海神・水神(龍王)に祈りを捧げるこの川祭りは、明治以降に形作られたとみられますが、地域ぐるみで次世代に信仰行事を継承する好例として評価され、福岡県の無形民俗文化財に指定されています。川祭りには深江神社の神職も立ち会い、神社と地域住民が協働して子ども達に伝統と信仰心を教え育む場にもなっています。こうした年中行事の存在は、深江神社が単に神を祀る場所に留まらず、地域コミュニティの文化・教育の核として機能してきたことを物語ります。神社境内には地域の氏子によって奉納された石碑や記念物が点在し、防火・豊作・報国など様々な祈念の歴史を伝えています。総じて、深江神社は深江の地域文化形成において宗教的中心地であり、地域社会の連帯とアイデンティティを育む役割を果たしてきたと言えるでしょう。

近代・現代における変遷と地域住民との関わり

明治維新後、国家による神社制度整備の中で深江神社は村社に列格されました。廃藩置県に伴いそれまで庇護者であった藩が無くなると、深江神社は地域住民による維持管理へと移行します。明治初期の神仏分離政策により、深江神社に付属していた寺院(神護寺秀覚院)も廃され、社殿内の仏像や仏具が撤去されるなどの変革がありました。しかし神職家系は断絶することなく続き、古来よりの宮司家(原田氏の流れを汲むとされる)が現在まで約40代にわたり神社祭祀を担っています。これは明治以降も地元での信仰が揺るがず受け継がれた証左と言えます。近代には神社の管理主体が氏子総代会など住民組織に移り、地域による支援の下で社殿や境内の維持が図られました。

明治期の深江神社と地域社会の関係を象徴する出来事として、外内神社(とないじんじゃ)の合祀と学校建設が挙げられます。外内神社は深江神社の境内社の一つで、祭神は山の神である大山咋命(おおやまくい の みこと)です。もとは二丈岳(にじょうだけ)の山腹、外内山に鎮座していた山岳信仰の神社でしたが、明治21年(1888年)にその社殿を深江神社境内へ移転・合祀しました。この際、旧社地(山林)の払い下げ・売却が行われ、その収益は村の公共事業に充てられました。記録によれば、旧外内神社の広大な社有林を売却して得た資金で深江村に新たな小学校を建設し、さらに一部は地域の基本財産基金として蓄えられ、村民の利益に大いに貢献したといいます。外内神社の神霊を迎え入れ地域の神社信仰を一元化する一方で、その資源を教育施設の整備に充てたことは、維新後の地域社会が神社を核に近代化を図った好例です。村人たちはこの恵沢に感謝し、以後毎年4月16日と9月16日を「外内様のお祭り」として奉賽(奉謝祭)を行うようになりました。これは深江神社(と合祀された外内神社)が地域振興に果たした役割を住民自らが記憶に刻み、感謝の意を表し続けている行事です。明治期を通じ、深江神社は地域の公共的事業(学校新築やインフラ整備など)にも間接的に関わり、地域社会の発展と密接に結び付いていました。

大正から昭和にかけても、深江神社は地域の信仰とともに歩みました。大正期までは盛んだった例祭の流鏑馬行事が途絶えた後も、奉納相撲や余興など地域の青年団による活動が行われ、戦中戦後の困難な時代にも氏子たちは神社の護持に努めました。昭和戦後の神道指令により国家管理を離れて宗教法人となった後も、地元有志の手で社殿の修復や境内整備が成され、昭和50年代には神輿や祭具の修繕も行われています。平成に入り、神社創建から数えて800年という大きな節目を迎えたことから、平成15年(2003年)に鎮座八百年祭が斎行されました(遷座の1203年を起点とする)。この際には記念事業として社史編纂や記念碑建立、奉納行事などが行われ、改めて地域の歴史遺産としての深江神社の価値が見直されています。氏子や崇敬者による浄財の寄進も募られ、老朽化していた社殿の建て替え資金が蓄えられました。その結果、平成23年(2011年)には本殿・拝殿を含む主要社殿の新築が成り、現在目にする社殿はこの時に再建されたものです。伝統的意匠を凝らしつつ耐震性も備えた新社殿は、地域住民の協力と信仰心によって実現したものであり、深江神社が今なお「氏子の社」として息づいていることを示しています。

現在の深江神社は、糸島市二丈深江地区の鎮守様として地域住民に親しまれ、日常的な信仰の場であり続けています。年間を通じて初詣や七五三、正月のどんど焼き、夏越祭(茅の輪くぐり)などの行事が営まれ、子どもの誕生時の初宮詣や成長祈願、厄払い、地鎮祭といった人生儀礼でも多く利用されています。特に、豊臣秀頼公誕生の故事にちなみ安産・子育ての神様として信仰されている点が特徴的です。社務所には安産祈願や子どもの成長祈願の絵馬が数多く奉納されており、近隣の妊婦や家族連れが祈願に訪れています。この信仰の延長線上に、現代ならではの地域住民との関わりも生まれています。毎月22日には「にゃんにゃんの日」と称して猫の御朱印が頒布されるのですが、これは氏子の有志が「深江で無事に子どもが育ったお礼に何か奉仕がしたい」という思いから手作りしている特別御朱印です。地域で進めている地域猫(野良猫の適正管理)活動にちなんで猫をモチーフにしたデザインとなっており、その収益も含め地域貢献に充てられています。このように、伝統的な信仰と現代的な地域奉仕が融合した取組みが行われている点は、深江神社が時代とともに進化しつつも地域に開かれた存在であることを示しています。氏子たちの創意工夫によって神社が地域文化のプラットフォームとして活用され、新たな伝統が創出されているとも言えるでしょう。

総括すると、深江神社の成り立ちと歩みは常に地域社会とともにありました。その創建には武士団の祈念が込められ、中世・近世を通じ街道の宿場町深江の守護神として機能し、領主や庶民から崇敬を受けて発展しました。祭礼や行事を通じて人々の信仰の核となり、地域文化・コミュニティの形成に寄与してきた歴史的背景があります。近代以降も神社は地域振興に資する存在として位置付けられ、教育や福祉にも間接的に貢献する一方、伝統行事を継承することで郷土のアイデンティティを維持してきました。そして今日に至るまで、深江神社は地域住民の信仰の寄る辺かつ交流・協働の場であり続けています。学術的視点で見れば、深江神社の歴史は地方神社がどのように地域に根付き、その社会的機能を変化させてきたかを示す一例であり、信仰・祭礼・共同体の関係性を読み解く上で貴重なケーススタディとなっています。深江神社は過去から現在への長い時間軸の中で地域と共生し、信仰の伝統と地域社会の発展が相互に影響し合ってきたことを雄弁に物語っているのです。

参考文献・出典(一次資料・公的資料を中心に):

  • 福岡県神社誌『深江神社』項(創建由緒、祭神、藩政期の記録)
  • 糸島市観光協会「深江神社」紹介ページ(神社の歴史概要、御祭神、現在の取り組み)
  • 糸島新聞「いとしま伝説の時代 – 太閤道」(2023年8月7日)(豊臣秀吉と深江神社の逸話、第二鳥居の由来)
  • 福岡の杜(神社紹介サイト)「深江神社」(現在の社殿建立年、境内由緒物)
  • 試撃行(歴史探訪ブログ)「福岡県糸島市 深江宿跡」(深江宿の歴史、秀吉寄進と藩政期の深江宿)
  • 糸島市観光協会「深江神幸祭」紹介ページ(深江神幸祭の概要、奴振りや神輿担ぎ手の習俗)
  • クロスロードふくおか(福岡県観光連盟)「深江神幸祭」紹介記事(祭りの目的(五穀豊穣・大漁祈願)と海上パレード)
  • 福岡県文化財データベース「深江の川祭り」解説(川祭りの概要と無形民俗文化財指定)
  • その他、深江神社境内掲示板の由緒書き、糸島市史(糸島郡誌)など地域史料。

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